第2章 6
菱屋カレンブロッソ
自由が丘店


東京・自由が丘駅の正面口に昭和30年台の菱屋初代一栄の時代に取引が始まったという越後屋という履物店がありました。
都会的な上品な常連顧客に恵まれ、菱屋の好みとも相性が良く、店頭での売上実績は高かったのです。
ところが約半世紀続く得意先ではあったものの、売掛金の入金が常に不安定で、気づけば菱屋への未払金合計は3000万円に達していました。菱屋初代の懸念事項でもありそれをそのまま引き継ぎさらに売掛金を増やした二代目の頭痛の種でもありました。
商品の供給を止めることはたやすかったのですが、そうすると先方は倒産する可能性が高く、イコール入金もゼロになるのは明白でした。でも店頭では菱屋の商品は自由が丘の顧客に高い評価を得てよく売れていました。三代目も「美しいキモノ」誌に広告を出していたしまうま柄のバッグや花緒サンダルになる前の軽装履きなどを投入していました。
2000年の夏、越後屋の女将がある人物を連れて大阪にやってきました。彼は自分が越後屋の実質的な管理者だと説明しました。そして、越後屋の売掛残を保証金代わりに菱屋にその店の運営をしてほしいという依頼をしました。
後日、二代目はそれを了承しました。それはメーカーである菱屋が小売店を経営するということです。商品の売上代金は菱屋が管理することとなりましたが、家賃や諸経費、女将さんの給料を菱屋が負担することとなりました。
契約や内装工事の関係で、リニューアル日は半年後の2001年の3月29日としました。菱屋の二代目社長は張り切って、従来の菱屋と相性のいい優良顧客向けに和装品を多めに手配してオープンに備え、モノづくりをしている人間がユーザーに直接会って話せることを、とても楽しみにしていました。
店舗の改装は谷町本店を改装した同じデザイナーに依頼しました。「オリジナル商品が輝くブランドになってください」とアドバイスをしてくれたデザイナー本人です。オープン日には開店祝いの花とともに「開店おめでとうございます。いいブランドになりましたね」と言葉をかけてくれました。
二代目社長が用意した和装品アイテムに、IFFで発表した花緒サンダルと柿渋布のバッグが、リニューアル新店のラインアップに加わっていました。
2001年3月29日、「菱屋カレンブロッソ自由が丘店」オープン。その語感の良さを、三代目の裕宣はよく覚えていると語ります。
第2章 7 多店舗展開へ

カレンブロッソの知名度が上がると、日経新聞や朝の情報番組からも取材も相次ぎ、上昇気流に乗りました。百貨店でのPOPUPイベントの依頼も次々と舞い込みました。裕宣は神風が吹いていると実感していました。毎春・秋の商業施設の新設・リニューアルのタイミングに合わせて出店の問い合わせがあり、「新しい和のブランドですね。貴重だ。是非出店して欲しい」と声がかかりました。
1999年 谷町本店
2001年 自由が丘店 大丸(梅田京都「ヒト付」心斎橋神戸東京「モノだけ」)
2002年 青葉台東急スクエア店 京阪京橋店 博多大丸店
2003年 代官山店 大丸札幌店 自由が丘南口に移転 しうまうまカフェ
2004年 マルイ北千住店 新関西発見 メルサ名古屋店 新宿三越店
2005年 ラシック名古屋店
2006年 福岡三越 京都柳小路店
2007年 カフェブロッソ自由が丘 東京ミッドタウン店 エキュート立川店
2008年 二子玉川(違約金を払って出店辞退)
2009年 カフェぞうり誕生
2010年 ラクエ四条烏丸店
2013年 グランフロント大阪店
2022年 コレド室町テラス店
これは1999年の谷町本店オープンから、路面店、商業施設、百貨店のインショップ、そして社員付きコーナー展開のショップ一覧です。はたから見たら派手な展開です。春、夏ごとに新店が増えていきました。並行して百貨店での催事やテレビショッピングなどでの販売も手掛け、販売実績は悪くありませんでした。
トレンドに敏感なファッションマーケットならではのエピソードがいろいろありました。伊勢丹新宿本店婦人靴売場では花緒サンダルが1日20~30足売れてバイヤーを驚かせました。彼曰く「夏のセール明けは売るものがないのが長年の悩みだった。秋冬の新作やブーツの陳列をせざる得なかったのだが、日本の夏オケージョンサンダルが売れるのは新発見だった。御社の花緒サンダルのおかげだ」とコメントを貰いました。
伊勢丹メンズ館でのエピソードも忘れられません。地下1階の紳士靴売り場のPOPUPエリアで営業終了後展示の準備をしていた時のことです。
約3m×2m大の大理石のメインテーブルの上にカレンブロッソのメンズ草履を10足程度並べていると、それを見た現場のマネージャーが言いました。
「なぜ伊勢丹の靴売り場に草履を並べる?」
と。何も言い返せないでいると、打ち合わせをしていたバイヤーがやってきて言いました。
「伊勢丹メンズ館だから新しい履物を並べるんだよ。草履ではない。鼻緒式の高級サンダルだ。」
世界中の靴を見ている名物バイヤーの目にも、見たことがない目新しい履物に見えたのだろうと思います。
大阪のテレビ番組で鼻緒サンダルが紹介されたこともありました。メンズタイプは出演していたベテラン俳優が出演者と「俺のだよ」と取り合うようなシーンがありました。その後、自社サイトの販売ページに注文が殺到しました。当時の担当者曰く、目の前の画面で新規注文がどんどん更新されていったそうです。結果は666足の売上となりました。
大手セレクトショップの社長が展示会に来た時、「うちと取引ありますか?なければ担当者から連絡させます」がきっかけでホントに秘書の方から電話がかかってきてそこからて10年ほどの取引につながったこともありました。
ショップチャンネルには2度ほど出演しました。店頭に芸能人が来店することもありました。裕宣は「和をベースにした洋風」なアイテムが珍しがられ、またある一定のセンスをクリアしていることに手ごたえを感じていました。
第2章 8
菱屋カレンブロッソ
自由が丘店移転
マスコミへの露出、百貨店等での販売PRなどが功を奏して洋風和装カレンブロッソのイメージが定着し始めたころ、ピンチが訪れました。
自由が丘の実質的な管理者だという男性から、自由が丘店閉店を告げられました。長年の顧客も帰ってきて売上も伸長している時期でした。(結局菱屋初代から越後屋に残る売掛残3000万は返ってこなかったのです)
裕宣は青葉台東急スクエア開店で縁ができた東急電鉄の担当者に相談をしました。すると自由が丘駅南口にあった地元銀行の支店が移転するので空きそうだということでした。
自由が丘駅南口の改札の横で、その物件の壁の裏が駅のホームという立地であり、その場所はファーストフード店の出店が決まっていたそうなのですが、地元の有力者の意向で出店不可の判断になってしまったというタイミングでした。
彼にダメもとで出店意向を伝えてもらうと、答えは不思議なことにOKでした。後でわかった話ですが、菱屋カレンブロッソ自由が丘店の前身の越後屋時代にその有力者がそこで買い物をしたことがあったから、とのことでした。
工事期間も家賃がかかるということで、大急ぎで自由が丘南口の新店の準備に取り掛かりました。旧自由が丘店の有料顧客リストがあり、少なからずブランド力もあったので販売に関する懸念はありません。しかし逆に懸念事項となったのは33坪という大きさです。旧店舗の約4倍でした。
工事代金2500万、保証金2500万、家賃230万の社運をかけたビッグプロジェクトの始まりでした。
旧店舗が約10坪で売上が月平均約500万円。家賃を1/4とみて900万円の売上が必要です。裕宣は物販だけで33坪は大きいなと思い、店は2分割する形でカフェ事業をやってみようと思い付いてしまいましたが、後にそれが「資金繰りの苦悩」の始まりとなります。
メイン事業はバッグ、草履の物販です。買い物後お客様がくつろげるカフェスペース、当時増えていた百貨店の担当者たちとの商談スペース、自由が丘駅徒歩0分の立地。夢は膨らみますが飲食業界の経験も0です。2003年10月4日のオープンに向けていろいろ準備をしていると、ある人物と出会いました。
京都祇園で有名フランス人シェフを起用したレストランを経営している人物でした。そのシェフのオリジナルケーキが有名でした。彼に自由が丘のカフェへのケーキの供給をお願いし快諾を得たついでに、カフェの運営を丸投げできることとなりました。内装はこちらも短納期で設計施工を担当してくれたグラフさんでした。
2003年10月4日、菱屋カレンブロッソ自由が丘(南口)店としまうまカフェ自由が丘のWショップオープン。
ところが数か月後ピンチが訪れます。頼りにしていたフランス人シェフが失踪しました。運営会社もアテにならなくなって、罪滅ぼしに投入してきた店長が自由が丘の雰囲気にのみ込まれ力を発揮できず、しまうまカフェは低迷していきました。
ところが物販部門の売上が毎月売上実績を伸ばしていきす。草履もバッグも売れて移転前の500万の売上が月を追うごとに上がってきて、1000万円を見据えるようになっていました。


