菱屋

第1章 6 三代目・廣田裕宣やすのぶの原点

菱屋三代目で現社長の廣田裕宣は、1967(昭和42)年に大阪府吹田市で生まれました。
当時の吹田市は1970年の大阪万博を控え、国内外から多くの視察や観光客を迎えるために新しく整備が進んでいた街でした。人々の装いはすでに洋服が中心でしたが、まだ着物を着る人も多く、家業も安定していた時代です。

裕宣は幼稚園から高校まで地元の学校で育ち、家業を特別意識することはありませんでした。会社があり父の実家でもあった、大阪・谷町六丁目に行けば草履やバッグ、帯地や革素材が並んでいたものの「家業」という実感は薄かったと言います。両親が着物を着ている姿を見た記憶もなく後継ぎについて言われたこともありませんでした。

家業を身近に感じたのは、高校生の頃です。
母が知人に菱屋の商品を紹介する集まりを自宅で開き、いわゆる“ママ友”たちが楽しそうに草履やバッグを手にとっていた光景をよく覚えていました。
当時は結婚式や入学式、葬儀などで既婚女性が着物を着る習慣がまだ残っており、草履やフォーマルバッグは生活の一部として求められていました。

第1章 7 大学とラグビー、
そして突然の喪失

裕宣は府立千里高校を卒業し、1年の浪人を経て関西学院大学に進学しました。高校時代から続けていたラグビー部に入部し、学生生活の大半を練習に費やす日々を送りました。ケガにも苦しんだものの、仲間と過ごした4年間は実りの多い時間でした。

就職活動の時期はバブル景気の真っ只中。体育会出身者にはOB紹介の道もありましたが、裕宣は「就職先は自分で探す」と決めていました。届く会社案内の中で説明会に参加した1社がキーエンスでした。高槻本社のコンクリート打ちっぱなしの建物に魅力を感じたことも、応募のきっかけでした。

いくつかの試験と面接を経て内定が決まった頃、思いがけない出来事が起こります。
母が病気で急逝したのです。49歳という若さでした。
裕宣にとって、人生で最も大きく、最も深い喪失でした。

第1章 8 キーエンスで学んだこと、
違和感として残ったこと

キーエンス入社後、裕宣はFAセンサーの提案営業を担当しました。
工場・研究所・大学を訪問してニーズを探り、センサーを販売する仕事です。一日の予定は1分単位で管理され、売上目標達成のために行動がすべて数値化されていました。効率的な会社のルールとしきたりに向き合う日々でした。営業としての話し方、間の詰め方、クロージングなど多くの技術を身につけましたが同時に、こう考えるようにもなりました。

「テクニックで売るのではなく、他にはないものを作れば“売る”のではなく自然に“売れていく”ような商売ができるのではないか」

入社から3年後裕宣は「水が合わない」と、キーエンスを退職します。

第1章 9 編集プロダクションとの
出会いで芽生えたもの

退職後、裕宣はアルバイト情報誌で偶然見つけた編集プロダクションに就職しました。社員3名の個人事務所でしたが、ファッション業界、新規オープンの飲食店、トレンドスポットなどを取材して記事を書く仕事はとても刺激的でした。

2〜3年がたった頃、ひとつの出来事が起こります。インディーズのデザイナーから「ファッションショーで使う革のカバンを作りたいが、素材が手に入らない」という相談を受けました。

その時、谷町にある父の会社の倉庫を思い出します。倉庫にはたくさんの革がありました。ただし、すべて和柄。「こういう革ではない」とデザイナーは残念がりましたが裕宣は違うものを感じていました。

十数年ぶりに倉庫で自社の本革素材に触れたとき、
桜、秋草、唐草などの植物モチーフ、吉祥柄、幾何学文様、洋風デザイン模様、金彩加工──幼少のころ、何気なく見ていたこれらの素材が、改めて強い存在感を放っていたのです。

その革は、父である嘉秀が鼻緒用に特注した菱屋オリジナルの本革更紗革シリーズでした。
編集者として流行の最前線に触れる日々を送っていた裕宣の中で、静かに何かが動き始めます。ほどなくして、裕宣は編集プロダクションを退職しました。1996年、29歳のときでした。

第1章 10 菱屋に戻り、初めて知った“和装業界の現実”

「編集の仕事を辞めた。親父の会社に入れてくれないか」
そう言う裕宣を、二代目の嘉秀は黙って受け入れました。

母を亡くしてからは父と二人暮らし。家業に戻ることを自然に受け止めていたのかもしれません。

復帰後、まずは事務仕事から始めました。当時マッキントッシュが流行り始めておりパソコンで書類を作ることは当然だと感じていました。
しかし菱屋では、納品書も請求書も経理台帳も支払手形も、なんと墨書き。社員は社長・営業3名・製造1名の計5名。売上は全盛期の4分の1ほどになっていました。

さらに、和装業界特有の商習慣がありました。
メーカーよりも小売店の力が圧倒的に上位の時代でした。商品企画やデザインを菱屋がしても商品には小売店の銘を入れ、小売店が価格を設定し、販売方法を決めます。委託販売ですので店頭で売れるまで菱屋には入金がありません。売れたとしても手形での入金などで3か月も4か月も、ひどい時には十月十日後の入金などもありました。売れるまで入金はなく売れなかった商品は返品される──。

けれど返品された商品には小売店の銘が入っています。他社に転売もできず、すべて菱屋の「売れない在庫」になっていきました。
またある呉服店の催事に同行した際、菱屋が17,000円で納めたバッグセットは店頭では70,000円の上代がついていました。

小売店のリスクはゼロ。売れれば大きな利幅。前職のキーエンスの直販システムに慣れていた裕宣にとって、この仕組みは衝撃でした。

さらに、商品がヒットしても、力のある卸から「自分のところだけに卸せ。生産キャパの全部を買う」という要請が入り従うしかありませんでした。

しばらくして売上が落ち着くと、「予定していた発注量を減らす。価格も下げてほしい」という要求が来るのです。

その頃には他社との取引は断っているため、逃げ道はなくなる──。
裕宣はこうした商習慣の中では未来がつくれないと強く感じるようになりました。

菱屋とカレンブロッソのストーリー

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