菱屋

第2章 1 2001年 
インターナショナル・ファッション・フェア東京へ

2001年1月、東京ビックサイトでIFF(インターナショナルファッションフェア)が開催されました。いわゆる合同展です。出展者側は各社自慢の商材をブースに出品し、そのブースに百貨店やセレクトショップのバイヤーが訪れて商談をする、マッチングイベントです。当時、メーカー単位での展示会は定期的に行われていましたが、東京ビックサイトの西ホールを埋め尽くす規模の合同展は、当時はまだ珍しかったと思います。
 申込時点で「和装アイテムは出品不可」という一文がありました。裕宣は事務局に問い合わせをし、和装アイテムではあるものの洋装マーケットに向けたアイテムであることを説明し、出展にこぎつけました。
出展品はオリジナル帆布の柿渋布のバッグシリーズと花緒サンダルです。和装業界以外のフィールドへ出るのは初めてでした。緊張もありましたが、それ以上に「どんな反応があるのか」という期待が膨らんでいました。

展示会初日から、カレンブロッソのバッグは多くの人の目を引きました。和の素材・技法を生かしながら、洋装バッグとして成立していることが新鮮に映ったのです。主催の繊研新聞が翌日には記事として取り上げてくれたこともあり、三越、伊勢丹、阪急、東急、小田急、そごうといった、裕宣にとって未知の百貨店バイヤーがブースに訪れました。
今から考えると2001年頃はトレンドが「和」の時代背景でした。そしてパルグループの有名バイヤーから声がかかり、後日来社され、取引が始まりました。初回の発注数は100本です。和装業界の2本3本ロットの発注とは桁が違いました。しかも買取です。
後日談ですが、柿渋布のバッグシリーズがラシットさんの店舗に並んでいるのを見た大丸百貨店のバイヤーの奥様からの情報をきっかけに、大丸百貨店からも声がかかり、梅田・心斎橋・京都・神戸・東京といった主要店舗での展開が決まりました。

第2章 2 EVA式草履花緒サンダル

IFF(インターナショナル・ファッション・フェア)では、バッグと同じくらい、いやそれ以上に注目を集めたアイテムがありました。それが、EVA式草履「花緒サンダル」です。
この草履の原点は、IFFの約1年前にさかのぼります。二代目・嘉秀の古くからの知人が営む軽装履き(スポンジ底の安価な鼻緒サンダル)メーカーから仕入れていた商品がありました。夏祭り用などのカジュアルな草履で、価格も手ごろですが底が減りやすいという弱点がありました。しかし東京自由が丘の得意先でテスト販売したところ、予想以上によく売れ、製造元の夫妻もとても喜んでいました。
そのころ裕宣は靴メーカー、靴パーツメーカー、革問屋、バッグ職人、ベルトメーカーなどさまざまな専門家が集まる靴・バッグ業界の2代目3代目の経営者たちとの交流を深めていました。彼らとはパリやロンドン、ミラノ、フィレンツェへの勉強旅行も共にしました。
ある日そのメンバーでゴルフに行った際、同じ組に神戸の靴底メーカーのN社長と出会いました。その会社は厚底ブームの頃に厚底部分の製造でヒットを飛ばしたものづくりが得意な会社でした。ゴムやウレタンと同じく「EVA(エチレン酢酸ビニルコポリマー)」という素材を自由に成形していました。

裕宣はN社長にたずねました。
「そのEVA素材で、草履の台の形に加工できますか?」
「できるよ」

この一言から、カレンブロッソの「カフェぞうり」につながる第一号試作が始まりました。数日後、EVA素材で成形された草履台が届きました。それを軽装履きメーカーの夫妻に渡し鼻緒を挿してもらいサンプルを完成させました。
それは軽くて、弾力があり、滑りにくく、加工もしやすい。スポンジ底の弱点だった「すり減りやすさ」を克服した新しい履物でした。これが「EVA式草履」が誕生した瞬間です。

さて、IFFに話を戻します。初日、二日目、最終日と、毎日菱屋のブースに訪れる流通グループがありました。初日は店舗の担当者、二日目はバイヤーと、名刺の役職が毎日ランクアップしていき、最終日に訪れたシューズ部門の責任者が言いました。

「時代的に和がアップトレンドなので探していた。それにちょうど当てはまる御社の花緒サンダルをこの夏マルイ全店で扱おうと思います」

「委託ですか?」
「いえ、全数買取です」

実際に2001年の夏、花緒サンダルはマルイ全店のシューズ売り場に並びました。売買契約を結ばなくてはいけない、専門の配送業者と契約しなくてはいけない、値札の発行も依頼しないといけない、生産体制も未熟な中、大変な苦労がありましたが、当時40〜50店舗あった、マルイ全店に花緒サンダルが並んだのは事実でした。
そのシューズ部門の責任者からマルイ全店で扱う旨を聞いた数時間後、合同展終了の1時間ほど前ぐらいでしょうか靴ブランド「卑弥呼」の社長と副社長さんがやってきました。

「こんな鼻緒付きのサンダルは見たことがない。御社は草履メーカーなのか。本物だね。うちでも取り扱いたいなあ。月産何足ぐらいなの?」

「1日に10足できるかどうか、なので月産250足ぐらいですかね」

「今、1月だから5月に納品として3か月、750足ぐらいではどうでしょうか?」

「それもできるかどうか・・」

「わかりました。その足数全部ウチで仕入れます。できれば1000足投入して欲しい」

「いや、でもすでにご注文もいただいていて、それからマルイさん全店で投入決まりまして…」

「マルイの担当者はだれなの?」

「Sさんです」

「Sさんかあ。よく知ってるので聞いてみますね。マルイさんには卑弥呼でもお世話になっているので」
数日後マルイさんのSさんと商談をしその年はマルイさんを優先することとなりました。
そのことを卑弥呼さんにお伝えすると、「全数は無理なのはわかった。できる範囲でお願いできないかな」となり、さらに「御社ブランドではなく卑弥呼ブランドとして別注のオーダーをしたい」と依頼を受けました。
この時、裕宣は別注・OEMビジネスに触れることとなります。

第2章 3 2001年 
パリ・プルミエールクラスへの挑戦と、海外の反応

IFFが終わる頃、ミラノ在住歴が長くヨーロッパ市場に詳しいバッグメーカーから「パリ・プルミエールクラス」という雑貨展の存在を教えてもらいました。
「審査が厳しいから通らないかもしれない。でも、通ればステータスになる展示会だから、ダメ元で申し込んでみたらいい」
そう勧められ裕宣は出展申込書をファックスで送りました。当時はまだメールが普及し始めたばかりの頃です。数日後ファックスで返事が届きました。そこには「審査合格」の文字とともに、
「私たちは日本の文化に大変興味があります。最新の着物用の草履として、ぜひ出展してください」
と記されていました。

こうして、初めてのパリ行きが決まりました。通訳を手配し、ユーロ建てで価格を決め、輸出入の仕組みを急いで学び、2001年10月パリへ向かいました。ほとんど半分は旅行気分のような心境だったと言いますが、展示会場ではドイツの通販会社をはじめ、スイス、フランス、イタリアなど、合計8件からオーダーを受けることになりました。

第2章 4 割れたガラスを拾い集めて、
再オープンへ

パリから帰国した裕宣は、谷町本店に向かいました。閉じたままになっていた店内には、あの日割れたままのガラスの破片が残っていました。一つひとつ破片を拾いながら、直営店「菱屋カレンブロッソ谷町店」を再オープンする準備を始めました。

新しい什器には、
・シマウマ柄と帆布で仕立てたオリジナルデザインのバッグ
・業界初のEVA式草履
この二つを並べました。

第2章 5 「隣の芝は確かに青かった」
――商習慣の違い

ここで、和装業界との違いが鮮明になりました。

・売上が上がるとすぐに伝票が起票される
・締め日から1か月後には、確実に現金で入金される
他業界では当たり前のことかもしれませんが、委託販売と長い手形決済に慣れていた菱屋にとっては、大きな驚きでした。資金繰りの面でも非常に歓迎すべき変化でした。
一方で、百貨店やセレクトショップには「流行を追う」という宿命があります。売れればすぐに補充が求められ、欠品は許されません。配送費・返品送料などのコストもかさみ、利益面では決して楽ではありませんでした。

それでも、これまでいた和装業界から見れば、そこはきらびやかな世界でした。
「隣の家の芝は、確かに青かった」
裕宣はそう感じていました。
2001年は、菱屋とカレンブロッソにとって「全国区」へ一気に広がった年であり、目に見えない何かが大きく動き出した転機の年になったのです。

菱屋とカレンブロッソのストーリー

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