菱屋

はじまり ―
和と洋のあいだで

「和モダン」という言葉を耳にすることがあります。
昭和生まれの世代には「和」は古いものというイメージが強い一方で、平成や令和に生まれた世代にとっては、新鮮でおしゃれなものとして映っています。古民家を改装したカフェに行列ができたり、普段着としての着物が「かわいい」と楽しまれていたり──そんな時代です。
菱屋の草履やバッグは、そうした「和」に新しさを感じる空気の中で、
・飛び抜けて個性的でおしゃれであること
・同時に、履き心地や機能性にも優れていること
この二つを両立させてきました。
草履メーカーとして100年の歴史を刻みながら、新しいブランド「カレンブロッソ」を生み出した菱屋。
その流れを、ここで一つのストーリーとしてご紹介します。

第1章 1 創業者・廣田一栄かずえ
「菱屋」のはじまり

菱屋のルーツは、1926(大正15)年2月に創業した「廣田一栄商店」です。
この年の暮れに大正天皇が崩御され、昭和元年となりました。まさに大正最後の年の創業です。

創業者の廣田一栄(かずえ)は、1901(明治34)年、福井県足羽郡(現在の福井市)に生まれました。若くして大阪・船場の浅井清兵衛商店(屋号:菱屋)に丁稚奉公に入り、10年間の奉公と1年のお礼奉公を通して、商売のいろはを身につけました。

その後、一栄は菱屋の小物部門を任される形で独立しました。当時の商家の慣習であった「のれん分け」です。扱っていたのは、下駄や草履の「鼻緒」だけでしたが、まだ着物が日常着だった時代、草履は生活の必需品でした。

一栄は毎朝5時に起きて、自転車に鼻緒を積み、主に神戸方面へ営業に出かけました。売り先は下駄屋で、「売り切るまで帰らない」という気持ちで一軒一軒まわっていました。
戦争中も、幸いにも住居兼店舗は空襲の被害を免れました。材料が不足する中、同業の仲間3人で少ない材料を分け合いながら、鼻緒づくりを続けていました。

第1章 2 菱屋の「のれん」を受け継ぐ

戦後、一栄の商売は順調に伸びていきます。一方で、本家である浅井清兵衛商店の経営は厳しい状況が続いていました。

ある時、当主は一栄にこう頼みました。
「もうもたないかもしれない。菱屋ののれんを守ってほしい」

この願いを受けて、廣田一栄商店は「菱屋」の屋号を正式に受け継ぎました。
呉服全般を扱っていた大店(おおだな)だった菱屋の名を、番頭ではなく、鼻緒だけを扱っていた一栄に託したという事実は、一栄がどれほど信頼されていたかを物語っています。

一栄はいつも「値段ではなく、いい鼻緒を作る。アタマで勝負する」と話していたそうです。世の中にたくさん出回っているものを作っても、値段競争にしかならない。だから、どこにでもあるものではなく、オリジナルにこだわる。自分でアイデアを出し、腕の立つ職人に作ってもらう──。
その姿勢は、現在の菱屋とカレンブロッソにも受け継がれています。

第1章 3 二代目・廣田嘉秀よしひで
継いだもの

1974(昭和49)年、二代目として廣田嘉秀が代を継ぎました。
この年、和装業界の売上規模は約2兆円と言われていました。しかし、この頃をピークに、和装業界の売上と規模は年々縮小していきます。洋服の時代へと移り変わり、平成・令和と進むにつれて、着物業界は下降の一途をたどりました。近年には一部の和装業者による違法な販売方法が社会問題になることもありました。

嘉秀は1936(昭和11)年生まれで、創業者・廣田一栄の三男です。兄2人、姉1人の末っ子でしたが、子どもの頃から母は嘉秀だけを商売の現場に連れて行っていました。呉服屋では反物の模様や、仕立て上がりの色柄などを実際に見せていました。母は非常におしゃれで、嘉秀自身も小さい頃から、しゃれた服を着せられていました。

ある夏の日、嘉秀が「黒い服は熱を吸収するから暑い」と言ったとき、母はこう答えました。
「暑い時に黒を着て、涼しげに見せる。これが本物のおしゃれや」
この言葉は、嘉秀の中に今も残っています。

嘉秀は関西学院大学を卒業後、1960(昭和35)年に菱屋に入社します。父である一栄は東京・六本木に東京営業所をつくるほどの、新進気鋭の経営者であり職人でした。嘉秀は、その父の片腕として職人たちと一緒に鼻緒づくりに励みます。

第1章 4 革更紗という挑戦
―柄のある革をつくる

嘉秀は、鼻緒の柄や色合わせを考えることが得意でした。
当時、無地の革は流通していましたが、その革に「柄」を入れるという発想は一般的ではありませんでした。そこで、友禅の技法をヒントに、ペンテックス(捺染)で革に柄を入れる手法を職人たちと一緒に考案しました。

革は油分が多いほど強くなりますが、その分、色を入れるのが難しくなります。油分を抜きすぎると革が弱くなってしまうため、そのバランス調整はとても繊細な作業でした。

職職人たちは新しい挑戦を面白がり、自分たちの腕試しとして取り組んでくれました。
こうして生まれたのが「革更紗」です。柄は200種類にも及びました。
この革更紗シリーズとしてストックしていった図柄の研究が、後の菱屋のデザインソースとして大きな役割を果たしていきます。

第1章 5 海外視察で出会った
“シマウマ柄”

嘉秀は、取引先の女性社長に勧められて、海外視察にも出かけるようになります。その社長は年に2〜3回ヨーロッパを訪れ、情報収集や仕入れを行っていました。

「和の履物屋であっても、新しいものを見なければいけない。見聞を広げなさい」という言葉に背中を押され、嘉秀もヨーロッパのファッションの現場に触れていきます。

ファッションの都・フィレンツェでは、職人が誇りをもって仕事に向き合う姿に強い印象を受けました。ファッションに関わるあらゆるものがここで作られ、ミラノに送られ、世界に広がっていく。宝石や装飾品、うつわなど、視察したもののすべてが鼻緒柄のヒントになりました。

そのフィレンツェの洋服店で、嘉秀は「しまうま柄」と出会います。それは服地用のスワッチ見本でした。それを見て嘉秀は「これは面白い」と感じ、担当者に鼻緒のサイズに合わせたデザイン画の修正を依頼して帰国しました。

帰国後、鼻緒用に小さくリサイズされたしまうま柄が手元に届いた時、担当のデザイナーからメッセージが添えられていました。
「とてもいい出来栄えになりました。自分でも使いたいから、費用はいらない」と。

さっそく、嘉秀はそのしまうま柄を革更紗シリーズの新作柄にしようと取りかかりました。従来の単にスクリーンプリントをするだけでなく、熱を加えてしまうまを浮き上がらせる「ふくらまし加工」も駆使した新作素材に仕上げました。

しかし残念ながらその後、シマウマ柄の草履やバッグはまったく売れませんでした。
というのも、飛び柄だったので鼻緒に仕立てると一本一本すべて違う柄の出方になってしまい安定せず、バッグに仕立ててても洋風過ぎたデザインは、和装の問屋や小売店の担当者には受け入れられることがなかったのです。
スリッパやクッションにも仕立てましたが反応は改善されず、商品や革素材はそのまま倉庫で眠ることになりました。

そして1996(平成8)年。旧来の商習慣や固定された流通経路はそのままに、2兆円と言われていた和装業界の市場は約半分程度にシュリンクし縮小していきます。

そうした状況の中、三代目となる廣田裕宣が菱屋に入社します。このとき、倉庫で眠っていたシマウマ柄の革が思わぬ形で再び動き出すことになります。

菱屋とカレンブロッソのストーリー

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